枕の上で夢に溺れて

極上の寝具で眠りたい

過去に戻る度胸がない

 「もしも過去に戻れるとしたら」 

 

 このテーマは、昔から映画・小説の題材に使われることも多く、様々な席で気軽に取り上げられる他愛のない話題の代表格でもある。話すことが無くなったとき、この話題か「もしも宝くじが当たったら」のどちらかがだいたい出てくるのだ。

 

 現代の人類にとって「タイムトラベル」は、叶いそうで叶わない、とても身近で遠い幻想なのだ。ぼくだって、憧れていないと言えば嘘になる。しかしぼくは、戻りたいかと言われたら戻れるにこしたことはないけど、戻れなくてもいいと思っている。

 今が一番良いから、なんてまるで湧き水のような綺麗事をバカ正直に言えてしまうのも滑稽だけど、それが事実なのだから仕方がない。どんな時期よりも今が充実しているかと言われると、そんないいもんでもないとは思うけれど、ただ単純に、戻りたい過去が取り立ててないだけだ。

 

 何年か前に、ぼくもそんな話題を酒の肴にした日があった。そのときもぼくは「戻れなくていい、戻ってもしょうがない」なんて捻くれたことばかり言っていた。ただの空気が読めないバカだ。それでも相手は「強いて言うならでいいから」と言って、どうにか話を広げようと尽力してくれた聖人君子だった。

 そうしてぼくは「学園祭前日の華やかな慌ただしさをしりめに入り浸った外れの静かな空き教室とか、勝手に早退した日に乗った真っ昼間の電車の様相とかが恋しい。戻れるならそういうのがいい。」みたいなことを答えたんだけど、あまり共感してもらえなかった。模範回答でないことぐらい分かっていた。

 

 そのとき友人は、ぼくのその答えに対し「っていうか、まず学生時代サボりだったなら、なんでまたサボるの。せっかく戻れるんだよ。なにかこう、まったくしなかったことをしようとか思わないの。」と言った。ごもっともである。

 けどぼくは「過去に戻れる」という仮説に対して「やり直し」ではなく「くり返し」を求めていて、その考えに基づいて答えを出したのだ。リフレインであり、リバイバルがそこにはある。

 

 だって、リバイバル上映というのも、基本そういうものじゃないか。もちろんまだ一度も見たことのない人が、これを機に観に行く場合もあるだろうけども、大半の客が観たことがあるのにわざわざ観に行くのだ。あのとき劇場で味わった感動や興奮をもう一度味わいたいから足を運ぶのだ。

 

 言ったようにぼくは今が一番だなんてことを思っているから、もしも過去に戻って動かした何かが現在に影響を及ぼすようなものであるのなら、今を変えないために、今を守るために、過去を闇雲に改変したくないのかもしれない。

 今が変わってしまうリスクを冒してまで、過去のあの日この日をどうにかしたいとは思えない。生きてきた知っている今以外の今を生きていけるほど強くはないのだ。

  そんなことを友人にも言ったら「臆病者だね」と言われた。

 

 ぼくは、過去に戻る度胸がない。