枕の上で夢に溺れて

極上の寝具で眠りたい

連休の残り香だけが漂う部屋にて

 長い連休が終わった。

 余裕な顔をして9連休なんか取得して、悠々と長い休みを謳歌していた社会人の衆は、まだこの世のどこかでどうにかやっているだろうか。プラットホームに滑り込んでくる列車に、うっかり飛び込んだりしていないだろうか。ぼくは心配だ。

 

 この連休中は、あまりのまぶしさで顔をしかめてしまうほど、よく晴れた日ばかり続いていた。時々ひどい夕立がやってきたりもしたけれど、憎たらしいほど良い天気だった。出掛ける予定なんてまったくないくせに、こりゃあずいぶんと絶好の行楽日和だな、なんて思いながら無意味にヘラヘラとしていた。

 

 それはもう、ひたすらに退屈な日々だった。あまりにも空っぽだから、まるでぼくの人生そのものみたいに感じた。ぽっかりと空いてしまっている穴を、アルコールでどうにか埋めるような、だらしない休日を過ごした。

 

 忙しいなんて状況もあんまり好きではないけれど、あまりにも退屈でぼんやりとしている時間が多いと、つい考え事ばかりしてしまって、ひどく憂鬱な気分になってしまうから、なるべく常にやることがある状態でいたい。

 そうあれば、ぼくはダメだとか、いっそなにもかも終わりにしたいだなんて、そんなしようもないことを考えてしまうような空白や隙間がないのだ。退屈だから、暇だから、不意に消えてしまいたくなって、やり場のない感情に体じゅうをベコベコに潰されて、あまりの痛さに我慢できなくなって、わんわん泣いてしまうのだ。

 

 人間は欠陥だらけの生き物だから、簡単にくしゃくしゃになってしまう。そうして、結局もうどうにもならないほど壊れてしまった人間だって大勢いるのだ。どうにかなるうちに、カスタマーサポートに連絡しなければいけない。そういうめんどうくさい生き物なのだ。

 

 ぼくの父は、連休どうこう関わらず、なにもない休日でも朝から晩までせわしなく動き回っていて、ろくにぼんやりとしている時間がない。それもきっと、無暗にぼんやりしていると空っぽに虚しくなって、どうしようもなくなってしまうからなのかもしれない。

 実際は別にそんなんじゃねえんだろうけどさ。

 

 「じきに夏になるな」なんて言っておきながら、こんなにもすぐに夏の陽気になってしまうとはまったく思っていなかったから、体がまったく追いつかなくて、体の至るところが悲鳴をあげている。えらく怠い。君はどうしてそんなに急いでやってきたんだい。

 

 

桜が散った

 桜が散った。

 もっと北へ行けば、これからが見ごろだというから、日本という国は思っているよりも、南北に広い国なんだなと感じさせられる。そうこうしているうちに、ネモフィラツツジなどの花が綺麗に咲き揃い、見ごろを迎えようとしている。

 

 花なんか見て、何が楽しいんだろう。そんな寂しいことを時々ふと思ってしまう人間だけれど、それでも、綺麗な花を見て、穏やかな気持ちになって、ずっとこうあればいいなんて幻想のようなことに思いを馳せるのも、悪くはないよな、などと思ってみたりするものだ。

 

 ぼくの家には犬がいる。かれこれ10年以上、共にこの世で、それなりに生活を営んできたわけだけど、彼はこの世界のことをぼくらほどよく知らないのである。自宅から半径1km以上先の世界のことなんて、きっと殆ど知らないのだ。どんなものがあって、どんなヤツがいて、どんなことをしているのか。それらをまったく知る由も無いのだ。

 

 そんな彼は、今年に入ってからというもの、すっかり老いて弱ってしまった。後ろ足に怪我をして、その傷口から菌が入ってしまったかして、そう簡単に治らなくなってしまった。日々の散歩もようやくで、それこそ、よたよたと歩くようになった。

 老い衰えていく様を見るのは、なんであれ非常に心苦しい。ぼくの両親も、体の衰えや不調を度々口にするようになり、腰を労りながら歩いたり、容易でなさそうな顔を頻繁にするようになった。

 

 そうしてぼくらは、将来のことや、もっと言えば老後のこと、そんな途方もないこれからのことを漠然と考えて、不安になったり、心配したりするのだ。答えなんて、どんなに考えても出やしないのに。

 それらに対する答えをどうしても出したければ、いつか自分で作らなければいけない。もしかしたら模範回答のようなものが存在するのかもしれないけれど、自分自身がこうだと思ったものを正解だと思って、進んでいくしかない。そうしなければ永遠と、不安に苛まれながら生きていかねばならないのだ。

 そんな漠然としたこれからの対する不安と真摯に向き合いながら生きていくよりもよっぽど楽だから、ぼくらは遠くから飛んでくるかもしれないミサイルに、自分の街に降り注ぐかもしれないミサイルに恐怖してみたりするのだろう。

 

 どうせぼくらは、そんな美しい死に方なんてできやしないのだ。現実はもっと惨めに死んでいくものだ。そんな何かがこの漠然とした混沌から解放してくれるんじゃないか、終わらせてくれるんじゃないか、なんていう幻想は、簡単に指の隙間から砂のように崩れ落ちていくようにできている。

 

 老い弱った犬を連れて、公園までもたもたと歩く。花が散り、葉に変わった桜の木をぼんやりと眺めながら「じきに夏になるな」なんて言ってみたりする。

 

それなのに、それでいい

 

 誕生日を迎え、ひとつ年をとってから、はや1ヶ月が経とうとしている。

 

 自分にとって「誕生日」というものは、昔に比べてなんだか難しいものになってしまったように思う。気づかぬうちに距離が生まれていたような、以前はえらい仲が良かった兄弟の間に成長と共に生じ始めたなんとも言えない気まずさやもどかしさのような感覚によく似ている。

 

 年をとって何がどう変わったかというと、自分自身のことなんて、それこそ大して変わってない。時の流れと同時に物事だけが変化していて、そのことに時々気付かされて、取り留めのない感情に溺れそうになるものだ。

 

 先日、誕生日について話をしているときに、相手が「あるスポーツ選手は10代のうちに五輪に出場し世界の強豪と競い合っていて、それ以外の分野でも自分よりも年下が多く活躍してて…そんな姿を見て『それなのに私は…』って、思うことがよくある」なんてことを言っていたのをよく覚えている。

 

  そのとき自分がどんな返答をしたのかさえよく覚えていないぐらい、その場ではろくに掘り下げることなく、なし崩し的にこの話題を終えてしまったような気がするけど、その一言がどうにも頭から離れなくなってしまっていた。

 

 分からない話でもない。そんな感情になったことは自分にも少なからずある。たとえば、気に入った作家の作品一覧などを見ているときに、発表年などから年齢を逆算し「この人は何歳にはもうこの作品を世に発表してたのか」なんて思ってしまい、メランコリックな気分になってしまうなんてことは、一度でも経験したことだ。

 

  以前から自分は「よそはよそ、うちはうち。」という考え方をもっているつもりでいる。それでも「この人はこの年齢でこうだったのに」なんて感情を持ってしまうことが少なからずあるということは、そういった「よそはよそ」なんて考え方は結局上辺だけであって、心の底ではよそばかり気にしてしまっているのではないだろうか。

 

 そういう側面も無きにしもあらずであるだろうが、そればかりではないだろう。こういった感情を持つ人の多くは、きっと心の何処かで「それに値する能力を秘めているかもしれない」「自分自身にはまだ活かしきれてない能力が眠っているんだ」と思っているが故に、能力を活かせている人間に対して「なのに私は」と思ってしまうのだろう。

 

 仮にそうだとして、その感情が表に出てくることがあまりないのは、やはり「慢心」と思われることへの恐怖心や、それらに対する「防衛本能」がそうさせているのだろう。もろちん「その感情に対して自覚的になっていないため」もあるだろうが、たとえ自覚的であっても、それを表に出している人はあまり多くはないだろう。

 

 誰しも「自分が何より大事」なのだ。それに他意はない。できれば傷付きたくないし、嫌な思いなんてしたくない。どんなヤツであろうと、きっとそうだろう。だから人は、自らを守る。あまり自惚れたことは言わないようにする。そうすることで敵も減るだろうし、必要以上の攻撃を受けなくなる。

 

 それもひとつの方法だろう。ただ、その過程で「そんな能力は自分にはない」などと言い聞かせることで、それを自覚させるような「その感情を殺す」ことで制御するなんてのは、正直言って、よくないことだと思う。

 

 「自己肯定」という言葉がある。自らの存在を肯定してやる、自分自身を受け入れてやるというものだ。人によって個人差はあれど、そう簡単なものでないのがこの「自己肯定」というものだ。

 

 世の中に見られる卑屈な感情の大半がこの「自己肯定能力の欠如」に該当するものであると思っている。「私はだめだ」「私なんてどうせ」なんて感情は、自らを受け入れることができていないとき、自己を肯定できず否定してしまっているときに生まれやすい感情だろう。

 

 今回のケースも「私にはそんな能力なんてないんだから」「どうせ私はこの程度」なんて「否定」することで感情を打ち消すのではなく「私は心の何処かでそういった考えを持っている人なんだ」「もっとそれを活かす方法があるかもしれない」と、肯定してやるべきだ。

 

 「自己とどう向き合うか」は、人生において非常に重要な要素だ。「他人とのどうこう」なんてものは、その先にある。自己の肯定は、他己・他人への肯定にも繋がる。自分を受け入れ、自分を信じてやれていない状態で、他人を信じ受け入れるなんてのは、そう簡単じゃない。

 

 あぁ…思い出した。

 その話をされたとき、僕は「それでいいんじゃないの」と答えたんだった。

 

 そうだ、それでいいんだ。

 

 よそはよそ、うちはうち。他人はしょせん他人。今の自分を受け入れてやる。もし相手と比べて劣ってるところが見えてしまってるなら、優れてるとこのひとつでも見つけてみればいい。これもそう簡単じゃないかもしれないけど。

 

 これでいいのだ。

足の指を角にぶつけた

 足の指を、椅子の角にぶつけてしまった。

 

 それは昨夜、突然の出来事だった。単なる前方不注意だ。非は自分自身にある。責任はそれ以外には微塵とも無い。だがこの負傷は「単なる前方不注意」では済ませられない事態になってしまっていた。

 

 この負傷によって寿命をぐんと縮めてしまった俺は、多くを悟った。端的にいえば「死期」だ。それは何年だとか何日なんてそんな悠長なものではなかった。

 

 俺は、じきに死ぬ。間もなく死ぬ。そう思った。

 

 足の先から伝わる強い痛みと共に、今までの出来事が走馬灯のようによぎった。反射的に「やっぱりそうだ。俺はここでおしまいなんだな。」と思った。はっきり言って、悔しいと思った。後悔をした。こんなことならば、ああしておけば良かったなど、様々なことを思った。

 

 しかし、まだ死ぬわけにはいかない。

 死にたくなんかない。

 

 咄嗟に俺は「今晩…まだ夕飯を食ってないんだ…!せめて…夕食ぐらいはのんびり食わせてくれ、逝くのはそれからがいい……」と強く願い、許しを乞いた。ばかばかしいかもしれないが、あんな危機的状況の中で絞り出した譲歩案のわりには、打倒なものだったと思う。

 

 すると、みるみるうちに痛みが引いていったではないか。なんということだろうか。こりゃあ、懇願してみるもんだな…とさえ思った。これで安心して夕飯が食える。俺は胸をなでおろした。

 

 だがここでひとつ、疑問にぶち当たってしまった。もし、いま願ったことが確かに受理されているのであれば、夕飯が食い終わり次第、俺の命は尽きてしまうのではないだろうか。仮にそうだとしたら、今ここで真っ先に夕飯を作り、それを食うのは急ぎすぎているのではないだろうか。

 

 いやはや、気付いてよかった。あぶないところだった。身辺整理とまではいかずとも、俺にだって死ぬ前に済ませておきたいことのひとつやふたつはある。だがしかし、いざこうしてじきに死ぬと分かってしまうと、何をしておけばいいのか案外分からなくなるもので、大したことはできなかった。今さらどう足掻こうが無駄な抵抗だと言われているような気がして、虚しくなった。

 

 結局のところ、特別なことをして、特別な最期を迎えるなんて、そんな美しい死に方は、そう簡単にはできないのだろうな。悪あがきはこれぐらいにして、さっさと夕飯を済ませ、すべてを終わらせてしまおう。いっそ、早いところ無に還りたい。

 

 いや、待てよ。俺は「今晩まだ夕飯を食えていないから夕飯を食ってから逝きたい」と願い、それが受理されたんだよな。だとしたら、今晩夕飯を食わずに夜を明かしてしまえば、回避できるのではないだろうか。

 

 我ながらなんて冴えているんだろう。咄嗟の判断にしては見事だった。素晴らしい譲歩案を提示したものだ。自らの命に関わることになると、ヒトはこうも冴え渡るものなんだろうか。思わず笑みが溢れてしまうほどだった。

 

 とはいっても、手放しで安心できるほど脳天気ではない。というのも「今後の人生における"夕飯"とされる食事をスルーし続けない限りは回避できず、単に延期しているに過ぎない」という条件で受理されている可能性も、否定できないからだ。

 

 してやられた。こんな「言葉のあや」などに囚われる羽目になるとは。

 

 「今晩」という表現がどうように作用しているのか。それが問題だ。その「今晩」が、文字通りのこの瞬間の「本日」にのみ適応されるものなのか、その日そのときにおける「今晩」に適応されるものなのか。もし後者であるのならば、「現在にとっての明日」も「その『明日』が今日である瞬間」においては「今晩」という表現が正当なものになってしまうのだ。

 

 そもそも、こんなややこしいことを考えていること自体が不毛で、「夕飯を食べる」という"Do"のみが条件で、「今晩」などという"When"は、一切関係ないものとされている可能性だってあるのだ。

 

 もう、何もかもが分からない。

  

 こうしているうちに、気がついたら夜が明け朝になり、そのまままた日が暮れ、再び夜がやってきていた。こうして、昨夜における「今晩の夕飯」を何気なくスルーしていた俺は、今のところは体にも何の変化も無いまま過ごすことができていた。

 

 日中の食事に関する制約は一切無いだろうと判断した俺は、日が暮れる前にしっかりと食事を摂っていた。そのおかげもあって空腹には一切困っていなかったが、今後生きていく上で永遠と夕飯を抜き続ける生活を送っていくことには、やはり限界を感じていた。

 

 だから俺は、夕飯を食べた。今後の人生のためにも、それが最善だと思ったからだ。食中も食後も、毒が盛られたものを食らったときのように悶え苦しむなんてことは無かった。今のところ体に大きな変化もない。眠りにつき次第、そのまま静かに息を引き取る仕組みなのかもしれない。そのため「死を回避した」とはまだ言い切れない。

 

 人はいずれ死ぬ。必ず死ぬ。もしも、いま不意に命が尽きたとしても、昨夜の件が原因とは言い切れない。命というのはそれほど不明確なものだ。 しかしこの世に「生」を与えられたものは皆、常に「死」と密接な関係にある。俺は間もなく息絶えてしまうかもしれない。そのためにも、これだけはどうしても言い残しておきたいと思う。

 

 足の指を角にぶつけると、死ぬほど痛い。