枕の上で夢に溺れて

極上の寝具で眠りたい

誕生日を迎えた男

 今日は誕生日である。

 

 6月23日が、ぼくの誕生日である。だからなんだと言われたらそれまでだし、誕生日について自ら言及すると、恩着せがましくなるというか、祝ってやらねばいけないムードにさせてしまうので、あまりぼくはこの日について自ら触れたくはないのだけど、世の中には言われなければ分からないものもあるのだ。

 あまりみんなの祝意に水を差すような感じになってしまうのも嫌なので捻くれたことを言うのはこれぐらいにして、控えめに言って、本当にありがたいです。どうもありがとう。

 

 誕生日というのは、年に一度だけしかないその人が無条件で主役になれる日だ。学校に居場所がない人も、家に居場所がない人も、そもそも家がない人も、本来その日はその人が主役になれる日なのだ。無条件に祝って然るべき日であるのだ。「本日の主役」というタスキを掲げて、胸を張って先頭を歩いてもいい日であるのだ。

 日付が変わった瞬間にタスキを剥奪されて、ボコボコに袋叩きにされる覚悟のある人間だけ調子に乗りまくればいい。ぼくはそんな覚悟はないから、偉そうにするでもなく、慎ましく1日を過ごしたけれども。

 

 こんなだけども、今年で24歳になる。年男だ。早いものだ。中身はずっと年を取らないまま、肉体ばかり悲鳴をあげる勢いで年を重ねている。精神的にはそれこそ「スマブラDX」が強い奴が一番偉かった中学時代の頃と大して変わらないのである。コントローラーの奪い合いをしていた頃の私との違いは、ほとんどないのではないかと思う。

 

 年度末に暫く続けていた仕事を辞めて、転職もうまくいかず、今は半ば職無しの状況で、自問自答をしているような、していないような状態で、生活をしている。

 学生時代に、なんとなく楽しそうで片足を突っ込んだ創作活動、音楽活動も、今はすっかり足を止めてしまっていたけれど、また、創作活動、音楽活動にもう一度、腰を据えて取り組んでいこうと思う。何かと紆余曲折してきたけれど、また本腰入れて、再開したいなと。

 

 とかなんとかいって、なかなか新作などが発表できなかったらみっともないよな。どうにかやっていきますよ。やるからには、ちゃんと結果を残したいですし。売れるぞ、わしゃ。もう干支2周分生きたのだから、そろそろ人生ある程度どうにかならないといけない時期ですから。いやー、どうにかなりたいですね、人生。

 

 また、ゼロからのスタートです。またお世話になります。よろしくお願いします。

 

 

 

夢と睡眠と友達の友達

 眠ると大抵、夢を見る。

 というのは、間違った認識であるらしく、夢は眠れば必ず見ているものなんだとか。夢を見ていたかどうかではなく、目が覚めたときに夢を見ていた記憶があるかないか、自覚があるかないかの違いなんだそう。ざっくり言えば、眠りが浅いときに夢を見ていることへの自覚が生まれたり、起きた後しっかりそのことを覚えていたりする、みたいなものらしい。

 人生に1度か2度だけ、一瞬目を瞑っただけのような睡眠だったことがあった。まるで魔法みたいだった。長めの瞬きをしたような感覚のまま、目を開けたら朝になっていた。よっぽど快眠だったのかもしれないけれど、ものすごく損をしたような気分になった。

 

 今日見た夢は、父親が死んだ夢だった。最近、もしも家族が死んでも自分は泣けるだろうか、悲しめるだろうか、と物凄く不安になることが多かったのだけど、この夢を見てはっきりと分かった。こんなに悲しいことがあるんだと思った。

 夢の中で、しばらく長い間泣き続けていた。いつしか父親の幻覚を見るようになり「お父さんが帰ってきた」とうわ言を言うようになってしまい、しまいには精神内科に通うようになっていた。

 

 昔から、友達の友達から「あなたの話をよく聞いてます」と言われることがとても多い。僕の友達は、自分の友達に僕の話をする人が多い。

 「いやお前の彼女と会ったことないし、初対面のヤツいたらさすがにお互い気まずいだろ」「いや大丈夫だって、お前の話はよくしてるし、会ってみたいって言ってるし」みたいな会話が、今まで割とよくあった。

 

 しかし「自分のことを友達伝いでよく知ってる」という絶好の条件があるにも関わらず、いざ友達越しではなく関わろうとすると「いや直接関わるのはちょっと…」みたいな態度を取られてしまいがちなのだ。え、ちょ、あれ、今どこで間違えたっけ。ど、どうすればいい。ん?え、あ、待ってリセットリセット、とりあえず前回のセープポイントからやり直すか…

 

 「友達止まり」どころか、友達にもなれない人が多い。ぼくのことは「友達越しの観察対象」でしかないのだろうか。

 

 Twitterで例えるならば、相互フォローである「私の友達」さんは、ぼくのツイートをRTしてくれていて、「私の友達」さんと相互フォロー関係にある「友達の友達」さんは、自身のTLに流れてきたぼくのツイートをいつも読んでくれているんだけど、ぼくをフォローすることはない、みたいな状況なのだろうか。

 そう考えると、大しておかしなことはないな。しかしぼくは友達が少ない。フォロワーも少ない。友達を増やしたい。フォロワーも増やしたい。なのに「友達の友達」や「まだ友達でない人」との友達のなり方が分からない。

  

 どうすればいい。

 ぼくと友達になってください。

 

最新のバージョンにアップデート

 最近、自宅のパソコンのOSを最新のWindows10にアップデートした。

 しかし今まで使っていたWi-FiアダプタがどうやらWin10非対応だったらしく、一切Wi-Fiに繋がらなくなった。うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。あっさり自宅のWi-Fiが死んでしまった。いとも簡単にだ。

 殺したのは私だ。そうだよ、私が殺したんだ。なんだよ、責めるならいくらでも責めればいいさ。もういっそWi-Fiを殺してぼくも死ぬんだ。だってそれしか方法がないもの。

 

 という話をするつもりだったのに、突然Wi-Fiが生き返った。何事もなく繋がるようになったのだ。どういうことだよ。何故繋がってんだ。お前非対応なんじゃなかったのか。いや、いいんだよ、繋がるんだったら。でもなんかこえーよ。大丈夫か、お前無理してないか。しんどかったらしんどいって言ってくれていいんだからな。

 

 昨日は母親の誕生日だった。

 思えば母はもう、ぼくの約3倍の歳月を生きてきたのだ。想像もつかない。ぼくのこれまでの歳月をあと2回ほど経験して、ようやく現在の母の年齢になるのだ。そう考えるとぼくなんてまだまだなんだと思わざるを得ない。途方もない。

 母曰く、この年齢になると、何事も風のように通り過ぎていくのだという。1年なんてあっという間に終わってしまうし、1週間なんて、もはや"瞬間"なのだという。さらに母は体も丈夫ではなく一度大きな病気を患ったりしたこともあって、なかなか思うようにはいかないのだ。

 

 母はよくぼくらを「うらやましい」と表現する。あらゆる物事が追い付かなくなってしまったいま、やりたいことがなんでもできるこれからの世代がうらやましいのだという。時々「もう手遅れだ」と思ってしまうのも、母からしたら贅沢で腹立たしいことなんだろうな。

 

 これからなんでも始められる。言い訳をしている場合ではない。手遅れなもんか、先に始めている人がいようとも、遅いなんてことはない。

 人生って思っているよりも案外自由なのかもしれない。いつからでも新しいことを始められるし、なんでもやり直せるのかもしれない。パソコンに続いて、ぼくも最新のバージョンにアップデートをしよう。最新のアップデートに更新だ。新しいアップデートは、生き生きとしたバージョン!

 

 ぼくなんて本来☆1の評価つけられても仕方のない人間なのに、ずっと☆4あたりの評価をしてくれている。長い間めちゃくちゃ課金して育成してくれたのに、これまでろくなアップデートが無かったのに、それでも☆4の評価をしてくれている。一世一代のガチャだったのにだ。本当にありがとう。誕生日おめでとう。

 SSRにはなれないかもしれないけれど、いつかRぐらいにはなるからね。

 

占われる男の話

 駅前にはいつも占い師がいる。

 

 ぼくが駅へ行く日の夜には大抵いる。いつ来ていついなくなるのか分からないけれど、気付いたころには、駅の階段を下りた先の片隅にぽつんと鎮座している。その人はいつも神妙な顔をしてじっとしている。向かい合うようにして設けられた席に誰かが座っているところは見たことがない。

 不気味といえば不気味なのだけど、夜その場所を通るたびにいるその占い師に対し、静かな興味がわいていた。一体何者で、どこから来てどこへ帰っていくのだろう。よく言うミステリアスな存在に惹かれるという感覚は、まさにこんなことを言うのかもしれない。

 

 基本的には占いというものをあまり信用していない。良くも悪くもたかが占いだと思える。天気予報のようなものだとも思っている。予報で明日は雨だと言っていたからといって、なるほどそれなら必ず雨が降るぞと信じ込むわけでもないけれど、傘は忘れず持って出掛ける。信じていないわけでもないから。そんなものだ。参考にはする。

  その程度の関心だから、占いというものが何をどの位の料金でやっているのかまったく知らず、つい気になって遠目からじっと眺めてしまっていた。すると「よければいかがですか」なんて声が飛んでくる。通り過ぎながら流し見している程度のつもりだったけれど、不自然だったのだろう、うっかり声を掛けられてしまったのだ。

 思わずたじろいでしまった。引き下がるに下がれない状況に立たされたので、これも何かの縁だと思い、ぼくは呼び止める占い師の前まで行き、応じることにした。正直な話、ブログに書くいい話題になるし、いいかなんて思ったというのもあった。

 

 聞けばどうやら10分毎に1000円という価格設定でやっているらしく、想像よりかはずっと良心的な価格だった。あとになって調べてみたんだけれど、こういう類いの占いの中ではかなり安いケースだったみたい。

 だったらと席に座り、あれこれ長話する気もなかったので、10分だけ見てもらうことにしたんだけど、当然自分自身についてある程度自ら話す必要もあって、思ったより大したことを聞けなかった。そういうことも考慮した10分制なんだろうな。うまくできてる。

 

 仕事がうまくいったりお金を稼げるようになることに比例して、人生の総合運みたいなものはどんどん下降していくタイプらしく、健康面が犠牲になったり、どんどん孤独になっていくんだそうだ。地獄かよ。成功と幸福が比例しないらしい。おい嘘だろ。ちゃんと幸せになれんのか、これ。

 将来のことや周りのことお金のことなどを考えて無茶な要求に答えたり、身の丈に合わない仕事を背負ったりすると身を滅ぼすから、やれる範囲のこと、やりたいと思った仕事をちゃんと選んで生きるべき、だそうだ。

 40代に大きな喪失を迎えるとのこと。両親が死ぬのだろうか。だとしたら割と長生きするんだな。恋人になる人とはもう既に出会っているらしく、割と相性も良いのでうまくいくんだそう。しかし人生における総合運が上昇傾向になるのは60代らしい。いや先すぎるだろ。もっと早く幸せになりたい。

 

 いかがだっただろうか。他人の占い結果なんか聞かされてもと思っているだろう。どうせぼくもこんなこと来月にはすっかり忘れてるだろうね。

 

ほんの一握りの本当のこと

 年を重ねれば重ねるだけ、ぼくらは様々なことを知り、学ぶ。

 幼い頃は知らなかったこと。年を取ってようやく知ること。ぼくら人間がどのようにして生まれるのか。そしてぼくらはいずれ、皆が死ぬということも、最初は誰もが知らなかったことだ。

 

 あらゆる物事は、それを認識しているかどうか、たったそれだけで作用の仕方が変わってくる。例えば「バカは風邪をひかない」なんて話も、風邪に対する自覚能力や知識が一般的な感覚よりも浅いが故に、風邪を風邪だと思わずに平気で過ごせてしまう無自覚な人のことを言っている。

 

 この世界は案外、なんでも知っている物知りな人間よりも、この世界のことをなんにも知らないような無知な人間の方が、幸せに暮らしていけるんだろうなと常々思っている。

 

 人間にも、ある一定の容量というものが存在しているとぼくは思っている。ハードディスクやメモリーカードのように。ぼくらが抱えていられる記憶や知識にも、限界というものがちゃんとある。

 抱えきれなくなってしまったものは、各々が知らず知らずのうちに取捨選択をし、定期的に削除したり圧縮したりしている。その過程でひどく歪んでしまったり、都合よく編集されてしまうことも稀にある。昔の大して良い思い出でもない出来事がいやに美しく思える現象も、それの一種なのではないだろうか。

 

 情報過多な日々を生きていると、これ以上はもう抱えきれないような感覚に陥ってひどく気疲れしてしまうことも少なくない。それは単純に、自分自身の取捨選択機能が人よりも劣っているからでもあるのだけど。

 本当はもう捨ててしまいたいようなものも、バックグラウンドで作動中だなんだと言われてどうしてもうまく削除ができないまま、仕方なく放置されていたりすることがある。

 

 知らないことはまだ山ほどある。そのうちのどれぐらいが事実で、どれぐらいが嘘なのか、知る由もないけれど、事実なんて、本当のことなんて、知らないままでいい。

 もしもこの世界のぜんぶが嘘であるならば、この世界に嘘しかなかったとしたら、それほど幸せなことはない。事実でなければいけない必要なんてどこにもない。事実であるなんてそれほど残酷なことはない。逃げ道がなく、どこにも救いがない。

 

 何も知らずに生きてそのまま死ねるのが一番幸せなのだ。世の中には知らない方が幸せなことだってあるのだ。「こんなこと知りたくなかったな」なんて何度思わされたことか。たとえそれが本当のことだとしても、知らないままでいたい。

 

 とはいっても、この世のすべて、何もかもが嘘だったら、嘘しか存在しなかったら、一切合切信じる必要が無くなってしまう。それはあまりにも寂しすぎるから、これだけは疑わずに信じてみようと思えるほんの一握りの事実があれば、それさえあればいい。

 

過去に戻る度胸がない

 「もしも過去に戻れるとしたら」 

 

 このテーマは、昔から映画・小説の題材に使われることも多く、様々な席で気軽に取り上げられる他愛のない話題の代表格でもある。話すことが無くなったとき、この話題か「もしも宝くじが当たったら」のどちらかがだいたい出てくるのだ。

 

 現代の人類にとって「タイムトラベル」は、叶いそうで叶わない、とても身近で遠い幻想なのだ。ぼくだって、憧れていないと言えば嘘になる。しかしぼくは、戻りたいかと言われたら戻れるにこしたことはないけど、戻れなくてもいいと思っている。

 今が一番良いから、なんてまるで湧き水のような綺麗事をバカ正直に言えてしまうのも滑稽だけど、それが事実なのだから仕方がない。どんな時期よりも今が充実しているかと言われると、そんないいもんでもないとは思うけれど、ただ単純に、戻りたい過去が取り立ててないだけだ。

 

 何年か前に、ぼくもそんな話題を酒の肴にした日があった。そのときもぼくは「戻れなくていい、戻ってもしょうがない」なんて捻くれたことばかり言っていた。ただの空気が読めないバカだ。それでも相手は「強いて言うならでいいから」と言って、どうにか話を広げようと尽力してくれた聖人君子だった。

 そうしてぼくは「学園祭前日の華やかな慌ただしさをしりめに入り浸った外れの静かな空き教室とか、勝手に早退した日に乗った真っ昼間の電車の様相とかが恋しい。戻れるならそういうのがいい。」みたいなことを答えたんだけど、あまり共感してもらえなかった。模範回答でないことぐらい分かっていた。

 

 そのとき友人は、ぼくのその答えに対し「っていうか、まず学生時代サボりだったなら、なんでまたサボるの。せっかく戻れるんだよ。なにかこう、まったくしなかったことをしようとか思わないの。」と言った。ごもっともである。

 けどぼくは「過去に戻れる」という仮説に対して「やり直し」ではなく「くり返し」を求めていて、その考えに基づいて答えを出したのだ。リフレインであり、リバイバルがそこにはある。

 

 だって、リバイバル上映というのも、基本そういうものじゃないか。もちろんまだ一度も見たことのない人が、これを機に観に行く場合もあるだろうけども、大半の客が観たことがあるのにわざわざ観に行くのだ。あのとき劇場で味わった感動や興奮をもう一度味わいたいから足を運ぶのだ。

 

 言ったようにぼくは今が一番だなんてことを思っているから、もしも過去に戻って動かした何かが現在に影響を及ぼすようなものであるのなら、今を変えないために、今を守るために、過去を闇雲に改変したくないのかもしれない。

 今が変わってしまうリスクを冒してまで、過去のあの日この日をどうにかしたいとは思えない。生きてきた知っている今以外の今を生きていけるほど強くはないのだ。

  そんなことを友人にも言ったら「臆病者だね」と言われた。

 

 ぼくは、過去に戻る度胸がない。

行き交う人々の生活の切れ端

 ぼくらは、働いたり、休んだり、休んだりしながら生きている。

 

 そんな中ぼくは、友達に会うために東京へ向かおうとしていた。外は激しく雨が降っていた。その様子を眺めている時点で、えらい気が滅入っていた。これほど気が重いことがあるんだなと自らに幻滅してしまうような気持ちにもなった。

 やっぱり今日はやめとこうかな、なんてうっかり思うような瞬間もあったけれど、会いたい人に会うために、どうにか重い腰をあげた。

 

 家にいてもすることがなかったから早めに出発したのだけれど、あまりにも無計画すぎてどこにも行く宛てがなく、人混みの中で呆然と立ち尽くしていた。こんなことだったら家でぼんやりしていた方が良かったじゃないかと後悔もした。

 

 人が大勢行き交い狭苦しくなっている駅前で、何をするでもなくぼんやりとして過ごしていた。そんなしょうもないことをしていると、いよいよ考え事にふけるようになっていき、嫌でも視界に入ってくる行き交う人々へ目がいくようになる。

 

 ここを行き交うひとりひとりに、帰る家があって、仕事や学校があって、友達がいて恋人がいて、親や家族がいる。それぞれに昨日があって今日があって、明日がある。そんな20年や30年、40年や60年の「小さな歴史」が行き交っているのだ。

 ぼくが知らない数十年分の中のほんの数秒間を、そういう長い生活の切れ端を、何百通りもいまこうして眺めている。ここにいるすべての人間の昨日をぼくは知らない。「このあと居酒屋どっすか」と声をかけてきたいけ好かないキャッチ男の「生活」について、ぼくはなにひとつ知らないのだ。

 

 いま目の前にいるハンサムな男だって、実は自宅のガスや水道を止められているかもしれないし、先ほどすれ違った背の高い美女だって、彼氏に昨日ひどいフラれ方をしたばかりかもしれない。

 一見そつなく生活しているように見えて、みんな朝が辛かったり、気に食わない奴に腹を立てたり、衣替えのタイミングを誤ったり、1Dayのコンタクトを3日ぐらい無理して使ってみたり、月末に襲いくる通信制限と戦ったりしているのだろう。

 

 この人の群れは、約70億人分のたった数百人でしかないのに、この世の人間が今ここに全員集合しているんじゃないか、という気分にさえなってしまう。本当に、ちっぽけだよな、人ひとりなんてさ。この世界にとって、あんまりにも小さい存在だよ。それなのに、えらい尊いものに見えた。

 

 そうこうしているうちに、いつの間にか目的の集合時間になっていて、呼びかけるような声につられてふと顔をあげると、見慣れた顔がそこにはあった。